日本の万華鏡史
by Junko Aragane
19世紀にすでに日本へ
日本で最初に万華鏡を見たのは誰だったのでしょう?
日本で最初に万華鏡を見たのは誰だったのでしょう? 江戸時代の書物に万華鏡と解釈される「更紗眼鏡」という言葉が出ています。それはデヴィッド・ブリュースター卿が万華鏡を発明してから、わずか3年後の1819年のことでした。
運んできたのは、当時交易で日本を訪れた東インド会社の西洋人だと言われています。
徳川幕府の鎖国政策のため、一般の日本人は海外からのものを見る機会もなく、したがってこれらの商人たちによって持ち込まれた品々にとても興味を持ちました。その中には、望遠鏡、顕微鏡、プリズム、眼鏡、ガラス器、幻燈機、時計、はさみ、ナイフ、玩具、そして「更紗眼鏡」も含まれていたそうです。
この古い万華鏡は「錦繍靉靆鏡(きんしゅうあいたいきょう)」と表示されていますが、この時代にヨーロッパから持ち込まれ、豪商の家に伝えられたと思われる大変珍しい貴重なものです。
(ギャルリー・ヴィヴァン所蔵品:写真提供 緒方豪氏)
その後、日本でも万華鏡が作られるようになりましたが、現在まで残っているものはほとんどありません。 この万華鏡は、当時の独特のデザインが筒に見られることから、江戸時代に日本で作られたと思われます。 そして日本からアメリカへ持ち帰られたこの万華鏡はアメリカのオークションサイトから現在の所有者、大熊さんが落札し、再び日本へと戻ってきたのです。
(大熊進一氏 日本万華鏡博物館所蔵品:写真は大熊さんの許可を得て、著書【日本万華鏡博物館】から複写したものです。)
徳川幕府の終焉後
明治維新(1868)を経て侍の時代は終わり、日本の社会は劇的に変わりました。この時代、万華鏡は「百色眼鏡」と呼ばれましたが、文字通り百の色が見える鏡の筒を意味していました。最初は時代の先駆けとして注目を集め、その後はおもちゃとしてとても親しまれました。それ以来、万華鏡はおもちゃとして楽しまれ、お祭りの露店や駄菓子屋さんで売られていました。
20世紀
その後もおもちゃの万華鏡が作られ、アメリカへ輸出されたものもありました。しかし20世紀の前半、日本は戦争の時代であり、この時代を生き延びた万華鏡はほとんどありません。このコレクションの持ち主、大熊さんは、ほとんどをアメリカのオークションサイトから入手したそうです。メイドイン・オキュパイドジャパンとプリントされた万華鏡は第二次世界大戦の後に作られ、海外に輸出されたものです。
(大熊進一氏 日本万華鏡博物館所蔵品)
戦後の世代の人々にとっては、万華鏡はおもちゃのひとつであり、また学校で作ったことのある人もいます。 アメリカの多くの人と同様に、日本人にとっても万華鏡は懐かしさを喚起するものです。厚紙の筒に反射する素材を組み込んだものが一般的なスタイルで、日本人が「万華鏡」という言葉から連想するのもこの形です。
日本のカレイドスコープルネッサンス
初めの頃
アメリカでは1980年代にカレイドスコープルネッサンスという盛り上がりを見せた時期がありました。 日本の人たちが現代万華鏡の存在に気付き、日本にも紹介しようとしたのはそれからしばらく経ってからでした。1990年ごろ、アメリカ本土で、ハワイで、そして日本で現代の万華鏡を見つけた何人かの幸運な日本人がいました。最初はそれぞれの個人的な経験としての何げない出会いでした。でもその新しい形の万華鏡に皆驚き、日本に持って帰って、ほかの日本人にも見せたいと思ったのは当然のことでした。
東京で最初にアメリカ製の万華鏡を販売した店(今田ご夫妻の誠志堂マイヤーズ)にはこれらの日本人が集うようになり、後に万華鏡愛好家のグループ、日本万華鏡俱楽部になりました。
1994年万華鏡専門店(荒木路さんのカレイドスコープ昔館)が東京で開店し、注目を浴びました。
万華鏡はマスメディアを通して、新しいもの、珍しいものとして紹介され、日本人の興味
を喚起しました。そして万華鏡作家や愛好家が知りあう機会もより多くなってきたのです。
コージー・ベーカー
熱心な愛好家の人たちが、日本からコージー・ベーカーさんを訪ね、彼女の素晴らしいコレクションに感銘を受けました。 アメリカで広まっているカレイドスコープルネッサンスのことを知り、ブリュースターソサエティの会員になった人もいました。
それ以来、コージー・ベーカーさんは、アドバイスや提案を求めてきた日本人に対しても、あまねく協力の手を差し伸べ、日本人にとっても彼女は「万華鏡界のファーストレディ」になりました。
公立美術館での万華鏡展
万華鏡の普及を促したのは、美術館やデパートで開かれる万華鏡展でした。特に公立美術館での展示は、アートとしての万華鏡を知らしめ、多くの人を集めることが出来、成功を収めました。ギャルリー・ヴィヴァンの緒方和子さんは、早くも2000年にこの企画の実現のために働かれました。企画から実現まで数年をかけての仕事でもあり、困難を伴うものですが、実現すれば大きな影響があると語っています。ここでもコージー・ベーカーさんの尽力により、その頃日本では製作されていなかった大型万華鏡をドン・ドークさん、トム・シュートウさんの協力を得て、展示することが出来ました。
最近の万華鏡界
プライベートミュージアム
日本には4館の万華鏡ミュージアムがあります。大熊進一さんはブリュースターソサエティにごく初期から参加なさった方で、1998年、コレクションを展示する万華鏡博物館を開きました。2012年に出身地に移転、新たな場所で万華鏡コレクションを披露しています。
越智宏倫博士は1999年、仙台万華鏡美術館を設立し、その充実したコレクションは高い評価を得ています。その中にはコージー・ベーカーさんのコレクションから譲り受けた貴重な作品もあります。
京都万華鏡ミュージアムは京都市教育委員会の支援のもと、2004年にNPO法人として設立されました。コレクションには国内外の様々な作家による万華鏡のほか、伝統文化、伝統工芸を表現する特別な万華鏡もあります。
2009年、三井郁弥さんは北海道の富良野市で、廃校となった小学校の校舎をユニークな万華鏡ミュージアムにしました。
ブリュースターソサエティの会員
ブリュースター・カレイドスコープソサエティーの会員になる日本人も増えてきました。アメリカで開催された今までのコンベンションで、依田満さん・百合子さんご夫妻、山見浩司さん、中里保子さん、佐藤元洋さん、北村幸信さんが発表した新作はピープルズチョイスアウォードを受賞しました。これらの作家さんに触発され、日本では万華鏡作家が増えつつあります。
万華鏡ワークショップ
自分で万華鏡を作れる万華鏡のワークショップも数多く開かれています。初心者から上級者まで、子どもから大人まで、そして1日教室から長期のコースまでと、いろいろな機会が提供されています。これらの活動は熱心に指導する作家さんがいるからこそ実現するのです。
2011年3月11日の大震災と津波の被災地に、何人かの万華鏡作家は万華鏡キットを持って訪れ、きれいなものを生み出す喜びをともに味わおうと活動しました。参加者が自分で万華鏡を作りあげた時の嬉しそうな表情がとても印象的だったそうです。
万華鏡公募展
緒方和子さん、豪さんが運営するInternational Kaleidoscope Association は2001年からアート万華鏡の公募展を開いています。出品作品の質は回を重ねるごとに高まり、万華鏡作家として認められるための登竜門にもなっています。
日本万華鏡俱楽部は大熊進一さんが運営する組織で、2001年から2014年まで毎年万華鏡大賞展を開きました。この公募展はアイディアと創造性を重視するもので、万華鏡が好きな人は誰でも応募できます。入選作品は日本国内で巡回展をして、多くの人に万華鏡を楽しんでもらいました。
どちらの公募展も10年以上の歴史を持ち、万華鏡を作る人を増やすのに貢献してきました。
仙台万華鏡美術館は2011年の大震災の被災者を応援するために公募展を何回か開いてきました。2014年の公募展は「希望」をテーマに多くの作家から作品が寄せられ、とても感動的な展覧会となりました。
万華鏡展
正確に数を数えたわけではありませんが、日本では年間40回ほどの万華鏡展が開かれているようです。個展、3-5人のグループ展、さらにもっと多くの作家が参加する展示会などいろいろです。これらの万華鏡展を訪れていろいろな作家や作品を知ってもらえるのは良いことです。
初期の頃から最近までの展示会のDMを見直すと、万華鏡がどのように進化し、広められてきたかがわかり、興味深いものがあります。
万華鏡の本
アメリカから現代万華鏡が入ってきた頃、それらについての情報はほとんどありませんでした。コージー・ベーカーさんの本やキャロリン・ベネットさんの本はとても良かったのですが、一般の日本人には届きませんでした。ブリュースターソサエティのニューススコープも珍しい万華鏡や、製作する作家の情報を興味深く伝えていましたが、誰もがその情報を受け取ることはできませんでした。2000年に万華鏡に関する最初の日本語の本が発行され、万華鏡について学ぶことができるようになりました。今では万華鏡についていろいろな観点から書かれた本がいくつか発行されています。
インターネットでも万華鏡関連のウェブサイトがより多く発信されるようになりました。日本語を理解しない人々にもそれらのウェブサイトを見てもらえるようにすることが課題のひとつです。
参考資料 大熊進一著 「万華鏡の本」「万華鏡博物館」
ギャルリー・ヴィヴァン監修 「魅惑の世界 万華鏡 ~15年の軌跡~」